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ギジ録 コスタリカ探訪 その40


前回の例のように取りやめになってしまった受け入れもある。

しかし、観光の予約は他にも時々と入っているようだった。


2004年に僕が1か月ほど滞在していた期間には、結局1組の団体が宿泊付きでこの地に滞在した。

それはイタリア人の十数名からなる団体であった。

一般向けエコツアーの企画旅行らしく、老若男女(すべて大人)の混成だ。


一行は、まずルーカスさんの家に車で到着。

最初の歓迎を受ける。

そして、徒歩で共有林に向かう。

ロッジに到着し、チェックイン。

付近の散策のあと、夕食を楽しむ。

夜には、地域での取り組みの歴史などについて説明を受ける、というメニューであった。


イタリア語とスペイン語は似ているので、2つの組み合わせでコミュニケーションが成立していた。

英語を介さないので、僕は通訳としての出番は残念ながらなかった。

イタリア人の参加者たちは英語も話せる人が多かったので、彼らとは主に英語で会話できた。


受け入れスタッフ含め、その夜は全員がロッジに泊まる。

翌朝、朝食のあと、再びルーカスさんがガイドとなり周辺を散策。

ルーカスさんの家のところまで戻り、彼らは車で去っていった。

1泊2日の受け入れメニューがこうして完了。


ラテン系だから、ということだけではないだろうが、元々エコツーリズムに関心のある客層なので、この地での滞在を心から楽しんでいた。

明るくて親切な雰囲気が満ち溢れていた。

ルーカスさんのユーモアや、オリビアさんともう一人のスタッフの人の優しさもツアーに温かみを加えていた。


これとは別の日に、スペイン人の5、6名が訪問したこともある。

彼らは日帰りで2、3時間のみの滞在だった。

そして、苗木を買うのが彼らの目的とのことであった。

ということで、これは住民組織でなく、ルーカスさん家族のお客さんだったようだ。


ルーカスさんの家の周囲には、いくつかの種類の苗木ポットが置かれている。

訪問者たちは説明を受けながらそれらを吟味していた。

接ぎ木の方法なども、ルーカスさんの実演付きで説明されていた。


このスペイン人ご一行は、コスタリカの別の地域に土地を持っているらしい。

そこで小さな農園と庭園を作るために植物を買いに来たのだ。

色々考えた結果、自動車に積めるだけの苗木のポットを選んで、代金を払って満足気な笑顔で彼らは去っていた。


苗木販売もやっているのか!という素直な驚きが僕にあった。

ルーカスさんたちにとっては副業の一つに過ぎないのだろう。

それでも、噂を聞いてはるばる買いに来る客がいるのだ。

苗木の質や、それらに関する知識。

それらへの信頼があるのだろう。


「運を信じるのか?」

その言葉を僕は思い出していた。

運がよくて、遠方から客が来るのではない。

工夫と努力と意志の積み重ねの成果。

訪問客の受け入れに立ち会うことで、それをはっきりと認識させられる僕であった。



写真:ロッジに向かう途中の木道。

このときは乾季だったが、雨季には沼と化すらしい。

木材が2、3年で朽ちてしまうので、維持管理が大変とのことだった。

イタリア人の団体の訪問時(2004年)に撮影。


ギジ録 コスタリカ探訪 その39


タラマンカに僕は1か月ほど滞在した。

その1か月について、事前の予想とまったく違う点があった。


事前の僕の想定はこうであった。

それは、地域組織でボランティアとして働かせてもらう、という形だ。

その地域組織のメンバーは森林を共有している。

その森林を保全しながら活用する様子を学ぶ日々を想像していた。


ところが、いざ現地に来てみると、組織的な活動がほとんどない。

組織のリーダーであるルーカスさんの自宅に居候させてもらう日々。

ファームステイのような感じだ。


仕事を手伝うという立場だが、必要な戦力という実感はまったくない。

むしろ、教えてもらうことばかりだ。

日々、貴重な学びがあったことは間違いない。

ただ、自分の研究テーマが共有林での住民組織の活動だった。

なので、多少の焦りを感じていたというのも正直なところである。


そんななか、滞在中に、2度ほど大口の予約が入っているとのことだった。

一つはアメリカの大学のグループ。

もう一つはイタリアからのツアーで、これは大人のグループ。

どちらも、共有林のなかにあるエコロッジで宿泊することになっていた。


僕は、特にアメリカからのグループの受け入れを僕は待ちわびた。

ルーカスさんは英語でもかなりやり取りできる才人。

でも、僕が英語で団体とやり取りを手伝って貢献できるかも、と期待していた。

アメリカ人たちが、このタラマンカの土地や人や暮らしをどう見るのかも知りたかった。


彼らの到着予定の前日。

ロッジで準備作業をするとのことで、ルーカスさん、オリビアさんと三男に僕も同行させてもらった。

ルーカスさんの家からは、草原やジャングルや沼地を通る40分ほどの徒歩。

沼地では、尾瀬にあるようなボードウォークとなっている。


ロッジに着くと、住民組織の他のメンバーの女性1名と初めて会った。

同じ地域に住んでいるといっても、家同士がかなり離れている。

なので、日常的に顔を合わせるわけではないのだ。

この女性は、今回の受け入れスタッフとして従事するという。


ロッジのキッチンに食材を揃える。

そして、部屋を掃除する。


素朴だが素敵な宿泊施設だった。

周囲は原生林である。


準備を整えて、家に戻る。

準備は万端のようだ。


翌日。団体が到着する予定の日だ。

天気は悪くない。

しかし、ルーカスさんの携帯電話には悪い知らせが届いた。

海が時化ていて、船が港に接岸できないというのだ。

それで、この受け入れはキャンセルとなってしまった。


食材購入などで事前に支出が発生している。

それはもう取り返せないようなのだ。

ルーカスさんは淡々と振る舞っていた。


僕は言った。

「運が悪かったですね。」


すると、ルーカスさんがにわかに強い口調で僕に言った。

「君は運を信じるのか?」


えっ?と戸惑う僕に彼は話し続けた。

「僕は運なんて信じない。それは努力を軽んじることだから。」


ルーカスさんは、若いころの自分を例に出した。

サッカーをやるとき、小柄な自分よりずっと大きくて運動のできる人が周りに多かった。

普通にプレイしていては勝負にならない。

ボールをすぐ大きい人に奪われてしまう。

そこで、最初はドカンと大きく蹴るが、次はフェイントでかわすなど工夫を重ねた。

その結果、平均すれば1試合1点くらい取れるくらい活躍できた。


なるほど。

運を天に任す、というような考えかたはないらしい。

僕自身は、意志3割、運8割、というような考えをしていた。

なので、ルーカスさんの言葉は理解できたけど、全面的に賛同することはすぐにはできなかった。

ただし、このやり取りは強い印象を僕に残した。


たしか2016年に3度目の訪問をしたときだったと思うが、僕はルーカスさんの生い立ちを聞くことができた。

極度に貧しい生い立ちで、子供の頃は麻袋(前回のペヒバジェ収穫の話を参照)がベッドだったとのこと。

大人になってこの地に入植し、一代でいまの家庭や生業を築いてきたルーカスさん。

その人生の軌跡を知り(ほんの断片にすぎないのだろうけど)、彼の真意がようやく理解できたような気がする。


どんなに厳しい状況でも、工夫と努力と意志で道を切り拓いてきた人生。

運のせいにして安易にあきらめない生きかた。


そのような強い工夫も努力も意志もない僕。

完全に理解することはできない。

でも、少なくとも、想像はできる。

そして、強い尊敬の念を覚えた。


アメリカの訪問団が来なかったのは残念。

でも、来なかったことよって、僕はこのときもっと大きなことを僕は学ばせてもらったのかもしれない。



写真:共有林に立つエコロッジ。たくさんあるタンクは雨水を貯めるためのもの。

右側にトイレとシャワーの小屋がある。

この立派な宿泊施設をここに建てることだって、決して運頼みではできないことだ。

ありとあらゆる工夫と努力と意志の成果なのだろう。

ただ、悲しいかな、熱帯では木材が朽ちるのも早い。

2004年当時ですら耐用年数ギリギリとのことだった。

次に再訪した2012年には残念ながら既に姿を消しており、その後、建て替えもされていない。


ギジ録 コスタリカ探訪 その38


前回はトウモロコシについて述べた。

トウモロコシが最も重要な作物の一つであることは間違いない。

しかし、それ以外にも多くの作物を育てている。

なんと、合計50種近くもの野菜や果樹があるとのこと。


家の周りで目に入るだけでも、熱帯の果樹がたくさんある。

パパイヤ、マンゴー、カカオ、パッションフルーツ、スターフルーツ、…。


初めてお目にかかる果物も多い。

例えば、鶏卵くらいの大きさの赤い実。

周囲は毛むくじゃら。

長さ1センチくらいの細い毛のようなものが覆っている。

いかにも熱帯っぽい派手な見た目。

触ってみると思いのほか表面は柔らかい。

指で皮を割くと、白く半透明の果肉が出てくる。

食べてみると、ライチのような味であった。


ランブータンという名前らしい。

それと似た果物がマンゴスタン。

外見はつるっとしたまん丸の表面で全然違う。

でも、皮を割いて出てくる果肉はランブータンと似ている。

にんにくの房と同じような感じで白っぽい果肉が放射状に入っている。

これがとてもおいしかった。

僕のなかでベストかもしれない。


珍しいところでは、カシューナッツの大きな木を初めて見た。

洋ナシのような果実があるが、それはなぜか食べない。

その実の先にに1つだけソラマメのように付くもう一つの実。

ボクシンググローブのようにくるっとした形。

そういえば、食べるカシューナッツの形と同じ。

この中身がナッツとして食べられることになる。

残念ながら僕は現地で食べる機会はなかった。

でも、自分の好きなカシューナッツがどのようにできるのかを見るのは新鮮だった。

1つの果実の1つの種。なので高価なのだろうということも何となく理解できた。


バナナだけでも色々な種類がある。

家の軒先には、採ってきたバナナが常に吊るしてある。

数十個の実のついた一房が2、3個ほど吊るされていることもあった。

日本で見慣れた細長い実の種類もあるし、短くて太いずんぐりした実の種類もある。

甘くない食用バナナ(プラタノ)もある。

売り物にしているわけでなく、自家消費のために栽培している。


バナナについてもう一つ。

牛がバナナを好きだなんて、僕には思いもよらなかった。

家の隣に牧場があり、牛が10頭ほど飼われていた。

「牛にバナナを見せてみな。」

そうルーカスさんに言われたことがある。

牛が食べるのは草。バナナなどに関心を示すまい。

僕の思い込みはすぐさま打ち砕かれた。

バナナを目にした牛は、すごい勢いで近寄ってきた。

「喜んで食べるから、あげてみな。」

ほんまかいな?

…ほんまやった。


大きく開いた口にバナナを入れてあげる。

すると、目をひん剥いて牛はむしゃむしゃとバナナを食べるのだった。

皮など剥かずにまるごとむしゃむしゃと。

栄養価の高いバナナは牛の好物でもあるとは。

生まれて初めて僕はそれを知ったのだった。


それはさておき、これだけ多くの品種を栽培することも驚きだ。

本格的すぎる家庭菜園のような感じだ。

滞在中、覚えきれないくらいの果物を食べさせてもらった。


また、ある時、喉が痛くなり体調が崩れ気味になった。

すると、庭先から採ってきたレモングラスを煮出した飲み物を作ってくれた。

このように、天然の薬の宝庫でもあることが分かった。


ルーカスさんは、歯磨き粉を使っていなかった時代からの知識を教えてくれた。

それは、肉を食べたあとは、ライムの汁で歯を磨くということだった。

殺菌効果で虫歯を防ぐという在来知かもしれない。


さて、数多くの作物の中で、僕に強い印象を残したものがある。

それを彼らはペヒバジェ(pejiballe)と呼んでいた。

調べてみると、英語ではPeach palmということでヤシの仲間のようだ。


実際、明らかにヤシの一種という見た目の木に成っていた。

その木は庭にあり、樹高は7メートルくらいだったかと思う。

その木のかなり高いところに実がたくさん成っている。

これを収穫するので手伝ってくれ、とある日、ルーカスに言われた。

作業の方法を説明してくれたが、よくわからない。

結局、僕はほとんど役立たずだったが、やっているのを見て初めて理解した。


まず、実の真下の部分に大きな袋を用意する。

これは、コーヒーや農作物などあらゆるものに使う袋だ。

昔は麻だったのだろうが、現代ではプラスティック製だ。

この丈夫な袋を平たくシート状にして、クッションに使う。

ペヒバジェの木の幹の腰くらいの高さのところに、袋の短い1辺(確か袋の口のほう)を縛り付ける。

反対側の1辺を自分が持つ。

ハンモックのようなクッションができ上がる。


地上側の準備ができたら、長い棒に括り付けたナタで実の詰まった房の根を切る。

地上4、5メートルの高さなので簡単ではない。

これをルーカスさんがやる。

房が落ちてきたときにクッションで受け止めるように、というのが僕に与えられた指示だった。

落下する重い房を受け止める際に、身体が引っ張られて木の幹にぶつかりがち。

ただし、幹は棘だらけなので気を付けるように、という注意だった。

身振り手振りでルーカスさんが動きかたを教えてくれた。


ただ、言葉だけでは完全に理解できなかった僕の様子を見て、結局ルーカスさんが両方の仕事を自分でやった。

実の詰まった房を切り落とす。

落ちそうになるギリギリの瞬間にクッションを構える。

見事に房をキャッチ。

そして、引っ張られた体を何とか幹と別の方向に逃がす。

幹にぶつかると、棘がたくさん体に刺さる悲劇が待ち受けるのだ。

(僕はぞれ以前にコスタリカの別の場所でこの悲劇を体験していた)

緊張感のある収穫作業だった。


その一房に数十個の実が付いている。

一つずつばらして、水洗い。

業務用のような大きなずん胴鍋いっぱいになる。

しばらく茹でると、食べることができる。

でんぷんが多いのだろうか。

腹持ちがよさそうだ。

甘味もあり、食べた感じがさつまいもに似ている気もする。

コーヒーと一緒におやつとして食べているようだった。


「おいしいね。」

鍋をのぞきに来た三女に僕は言った。

すると、彼女はこう返した。

「気がおかしいの? おいしいわけないじゃない!」

どうやら、ペヒバジェを彼女は嫌いなようだった。


命懸けの(?)収穫風景から、娘のこの反応までの一連のこと。

それによって、僕の記憶に強く刻まれる作物となった。

8年後の2012年に訪れた際には、この木は同じ場所には生えていなかった。

寿命が過ぎたのだろう。

なぜか、少し寂しい気持ちになったのを覚えている。



写真:外国から観光客が来るときに、歓迎のために設えた作物展示。

食用ではないがエリコニアなど美しい植物も飾られている。

最も数が多いのがランブータン。全員に食べてもらおうと考えたのだろう。

僕の好きなマンゴスタンは前列センターを飾っている(2004年撮影)。

ギジ録 コスタリカ探訪 その37


ルーカスさんの家族の一日の始まりは早い。

朝の7時頃には子供たちは全員登校のため家を出発している。

ルーカスさんやオリビアさんの朝のルーティンも完了している。


そのあとは夕方まで、ルーカスさんの指示により仕事を手伝う。

…というか、色々なことを教えてもらう。

それが、現地滞在中の僕の暮らしとなった。


仕事の内容は多岐にわたる。

その中で体力的に最もつらかった仕事。

それは、トウモロコシ畑での草取りだった。

晴れた昼間に日なたにいると、ここが熱帯だと思い知らされる。

暑い。

そして、足の裏が焼けるように熱い。

土の熱が、長靴の底を伝って足に届くのだ。


トウモロコシは最も大切な作物の一つのようだ。

夕方になると、家のなかで収穫したトウモロコシの粒をひらすらもぐ作業をする。

雨が強い日も、この作業をひたすらする。


ここのトウモロコシは、日本で見慣れているものとはまったく違う。

粒は、濃いオレンジ色のものが多い。

大きさも日本で売られているものより二回りくらい小さい。


そして、最大の違い。

それは、固さかもしれない。

収穫直後でも粒がカチカチに固い。

だから、粒をもぐ作業では、慣れないと指先がすぐ痛くなる。


食べかたも日本とは違う。

日本では、そのまま茹でたり焼いたりして食べることが多い。


コスタリカでは、粒を挽いて粉にして、それをこねて調理するのがメインだ。

例えば、トルティージャ(トルティーヤ)。

メキシコ料理に欠かせない。

コスタリカでもよく食べられている。

これは、トウモロコシを挽いて練って焼くパンのようなものだ。


トウモロコシは、鶏の餌としても用いられている。

鶏は粒のままパクパクと食べる。


トウモロコシを挽く機械は家の前の東屋にあった。

決して大きくはない。

だが、固いものに負けない歯のついた金属製のがっちりした装置。

レバーを手で回して、内部ですり潰す構造。


「コロンブスが持ち込んだ機械で、それ以来ずっと使っているんだよ。」

ルーカスさんが言う。

いたずら好きの笑顔で。

このような冗談が予期せず時々来るので油断できない。



写真:収穫したトウモロコシ(2004年撮影)

ギジ録 コスタリカ探訪 その36


まだ真っ暗な朝4時頃。

台所から人の活動の気配が聞こえる。

夫妻が既に起床して、朝食を作っているのだ。


ボランティア(という名の居候)である僕。

いつまでも寝坊してはいけない。

そう思って起床。


「君はまだ寝ていていいよ。」

そう優しく言ってくれる。

実際、僕にできる仕事はまだあまりない。


「コーヒーができたよ、飲むかい?」

そうやって1杯勧めてくれる。


コスタリカはコーヒーの名産国。

これまでコスタリカのどこに行ってもコーヒーはよく飲まれていた。

ここでも例外ではないようだ。


「おーっ、うまいぜ、このコーヒー!」

ルーカスさんが、まるで初めて飲むかのように感想を言っている。


365日×数十年。

数万回?飲んできてもこの新鮮な感想。

それだけ、暮らしのなかでコーヒーは大切な飲み物なのだろう。


「砂糖入れる?」

そう僕に聞くルーカスさん。

「いえ、僕はブラックが好きなんです。」

「えっ、そうなの? 僕は砂糖入りが好き。このほうがうまく踊れるよ。」

踊る仕草をしながら、いたずらっぽい笑顔で話すルーカスさん。


夫妻の協働作業で朝食の調理が進む。

ルーカスさんは小麦粉を挽いた粉を練っている。

ほどよい大きさに切り分けて、オリビアさんが焼く。

Arepa(アレパ)と呼ばれる一種のパン。

複数形だとアレパス。

トウモロコシを挽いた粉を使うこともある。

そちらが元々のアレパのようだ。


焼き方にもバリエーションがある。

素焼きのようにさっぱり焼くときもあれば、揚げパンのようなときもあった。


さらに、日によっては、食用バナナの料理がパンの代わりになることもあった。

固いバナナを輪切りにして、それを上からたたいてベシャっと少し潰す。

それを揚げたのがPatacon(パタコン)。

塩味で食べると、ポテトチップスのようにおいしい。


同じ食用バナナでも、きんぴらごぼうのように?細切りにすることもある。

ひと掴み分を塊にして揚げると、Arena(nの上に~がついてアレーニャと発音)になる。

アレーニャは蜘蛛の意味。

見た目が蜘蛛に似ているからそう呼ぶとのこと。

これも美味であった。


さらに、昨日の夕食に出たコメと豆を、こんどは合わせて炒める。

玉ねぎやクラントロ(パクチー)の香味野菜も刻んで混ぜる。

Gallo pinto(ガジョピント)。

コスタリカの最も代表的な食べものだ。


5時頃になると高校生の子供たちが起きてくる。

手早く支度をして、朝食を食べて5時半頃に出発。

スクールバスに拾ってもらう場所まで歩いていく。


入れ替わるように小学生の子供たちも起きてくる。

彼らも6時頃には出かけていく。


だんだん空が明るくなってくる。

朝食を終えたルーカスさんは家畜の世話をしに回る。

これが、家族の毎朝のルーティーンなのであった。



写真:Arepas(パン)、Gallo Pinto(豆と米の焼き飯)、そして卵。

卵料理は目玉焼きというより、油のなかでポーチトエッグにしたような目玉揚げ(?)。

このようにガッツリ食べて、涼しい早朝から活動を開始する。

(2019年撮影)

ギジ録 コスタリカ探訪 その35


夕食が終わると、1階の入り口側にあるリビングルーム的なスペースで皆くつろぐ。

ルーカスさんの定位置はハンモック。

ほかの人はソファや椅子に思い思いに座る。

定位置があるというほどではなさそう。


テレビのスイッチが入る。

小型の白黒テレビ。アンテナで受信しているらしい。

チャンネルによって画面の粗いものもある。

そのチャンネルのひとつを選び、夜6時台のニュース番組を見る。


それが終わると、テレノベラ(telenovela)が始まる。

英語だとソープオペラ(soap opera)と呼ばれるのだろうか。

いわゆるテレビの連続ドラマである。

日本で「連続テレビ小説」という表現があるが、テレノベラはそれにまさに近い。

このときは「夜のマリアナ」(Mariana de la Noche)という題名のドラマだった。


三女と四女が僕に説明してくれた。


「これはパナマのチャンネル。

ここはコスタリカよりパナマの放送のほうが電波がよく入るの。

このドラマは、コスタリカよりパナマのほうが先を進んでいる。

だから、サンホセの人たちはまだ私たちよりずっと前の回を見ているの。」


自慢げに語る彼女たちの笑顔が輝いていた。


テレノベラは主にメキシコやコロンビアで作られているものが放送されているそうだ。

残念ながら僕のスペイン語力では台詞をすべて理解することはできない。

でも、会話の強弱や効果音などはっきりした演出のおかげで何となく流れが分かる。

スペイン語の練習にもよさそうだと感じた。


夕食前に始めた洗濯は、この頃には終わっている。

高校生の3人は、自分たちの制服を洗濯機の脱水槽から取り出す。

そして、アイロンがけを始める。

彼らが手にするアイロンは、僕が見慣れた一般的なものだった。

しかし、コンセントにつなぐゲーブルが根本から切られていた。

では、どうやってアイロンがけをするのか?


答えはガスコンロでアイロンを熱するのであった。

弱火でガスを点け、鍋を熱するようにしばらくアイロンを置く。

頃合いを見計らって、アイロンを服にかける。

しばらくすると冷めてしまうのだろう。

再びガス台にアイロンを載せる。

その繰り返しなのであった。


故障した電気アイロンを使い続けているのか?

あるいは、電力節約のために最初からあえてガスを使っているのか?


うっかり聞きそびれてしまったのでいきさつは不明。

恐らく後者だろうというのが僕の想像だ。

昼間に太陽光で作った電気を蓄えて夜の照明などに使う。

でも、容量に限りがあるのですぐに尽きてしまうとのことだった。

アイロンのように熱に変えるにはかなりのエネルギーを使うはず。

なので、電気よりは豊富にあるガスを使っているのではないか?

そう僕は想像した。


思えば、日本でも昔は鉄のアイロンを火で熱して使っていたのかもしれない。

そういえば、アイロンって元々「鉄」の意味なのだった。


いまの自分にとって当たり前のことは、実はそれほど当たり前でない。

そんなことを思うひとつの場面であった。


こうした作業が一段落しテレノベラも終わるのが夜8時。

すると、いさぎよくテレビのスイッチが切られる。

歯磨きなど各自が根自宅を整え、おやすみの挨拶とともに2階に上がる。

オリビアさんが電池式の照明器具を渡してくれる。

夜に必要ならこれを使うようにとのことだった。

僕も、借りることになった1階の部屋で、蚊帳をくぐって床に就く。

こうして、滞在初日が静かに終わった。



写真:家の中にある電気系統の機器類(2012年撮影)。貴重な電力を大切に使っている。

ギジ録 コスタリカ探訪 その34


タラマンカの農村滞在初日。

家族全員との最初の会話が一通り終わると、夕食の時間になる。


僕にもオリビアさんが用意してくれる。

ひとりずつのワンプレート。

全員揃ってということでなく、みなそれぞれのタイミングで食べる。


お米と豆が主食。

日本の米より粒が少し小さい。

豆も小豆(あずき)のように粒は小さめで、小豆より黒っぽい。


米は最初は炒めて、途中で水を加えて蒸すようだ。

リゾットに近い調理法だろうか。

ただし、アルデンテのように芯を残すわけではない。

豆にも水を加えて煮る。

日本のおせち料理で黒豆を食べるが、ぱっと見はそれに少し似ている。

ただし、コスタリカでは味付けは甘くなく、塩味が基本であるが。


コスタリカの食事では、調理されたバナナが副菜として加わることもある。

我々がよく知っている甘いバナナが炒められて「おかず」となることを知った。

甘くない食用バナナ(platano)も用いられる。

これが揚げられてチップスのようになる料理は塩味も効いて美味だった。


日によって肉や魚が皿に載ることもあった。

育ち盛りの子供たちが多くいる家庭。

オリビアさんが工夫していることが窺えた。


残念ながら料理でお返しできないので、せめて進んで洗い物をすることにした。

子どもたちは、自分が食べ終わったあとに自ら洗ったりもしていた。

でも、少し皿やカップが流し台にたまっていれば、まっさきに洗うようにした。

この程度ではとても返せない恩を僕は感じていた。

よそから来た僕にまで同じく食事を用意してくれること。

感謝の気持ちは、この最初の夕食をいただいたときから今まで変わらない。



写真:この過程でのある日の夕食。レギュラー陣の米と豆に加え、この日のメインはオムレツであった(2019年撮影)。

ギジ録 コスタリカ探訪 その33


コスタリカは東西両方で海に面している。

東海岸の一番南東の端。

そこにタラマンカ郡がある。

国境がすぐそばにあり、それを超えれば隣国パナマである。


そのタラマンカ郡のMという村に着いた日。

17時を過ぎると、明るかった空もみるみる暗くなっていく。

そんな頃、子供たちが学校から帰ってきた。


先に帰宅したのは小学生の女子と男子。

徒歩4、50分かけて登下校しているとのこと。

その女の子は11歳で、7番目の子とのこと。

そんなに子だくさんとは!


同い年の男の子は、長女の子とのこと。

えっとー、つまり女の子から見て男の子は甥?

男の子から見て女の子は叔母さん?

同い年だけど、そういうことになるのだろう。

ルーカスさんとオリビアさん夫妻から見ると、娘と孫ということになる。


夫妻の長女は既に結婚して、タラマンカ郡の別のところにいる。

その長女の子どもである11歳の男の子。

健康上の理由で、この家で暮らしているとのこと。

バナナ農園の多いタラマンカ。

農薬散布の影響が比較的避けられるこの家を選んだそうだ。


ちなみに、この家では生活用水は地下水だ。

家のすぐ前の地上2メートルくらいのところにタンクが設置されている。

時々ポンプで地下から汲み上げた水をそこに貯めている。

飲み水もその水を使っている。


雨水を貯める方法のほうが手軽。

しかし、近隣のバナナ農園の農薬の影響を避けるために地下水を使っているとのこと。

ある程度深い地下水は、地中で濾過されているのでより安全だそうだ。

実際、僕はここで暮らすあいだ、蛇口から出るこの地下水を日々口にした。

そして、お腹をこわしたりすることは一度もなかった。


ほどなく他の3人の子供たちも帰ってきた。

女子2人。18歳の三女と16歳の四女。

そして、14歳の男子が次男とのこと。


彼らは、スクールバスで高校に通っている。

高校はコレヒオ(colegio)と呼ばれている。

英語だとカレッジ(college)だから大学かと思いきや高校なのだ。


スクールバスに乗る場所と家の間は徒歩らしい。

僕の記憶が正しければ徒歩2、30分。

僕がシクサオーラからタクシーで来るときに最後に左折したあのあたりかな?

そう想像した。


高校では制服が徹底されているらしい。

上は水色のシャツで、下は紺色のズボンだった。

女子はズボンかスカートか選べるらしい。

きちんとした印象。


彼らは帰宅して、僕と挨拶と握手を交わしてくれるとすぐに着替えた。

そして、来ていた制服を上下とも洗濯機に入れて洗った。

毎日洗っているとのこと。

熱帯の暑い地域だから、汗もたくさんかくのだろう。


洗濯機は電気で動く二槽式。

自分の実家にあったのと同じような種類。

それを譲り受けて、実は自分も日本でまだ二層式を使っていた。

なので、親しみを覚える。


洗濯機だけでなく、先ほどから家のなかの照明も点いている。

ということは、電気が通っているのだろうか?

外に電線は見なかった気がするが。


聞いてみると、そうでないという。

この家の屋根の上に太陽光発電のパネルがあるとのこと。

自家発電しているのだ。

昼間に発電して、ある程度充電できるので夜にそれを使う。

ただし、充電できる量に限りがあるので大切に使っている。


そういった暮らしぶりをひとつずつ学ぶ日々が始まった。



写真:屋根の上に設置された太陽光発電パネル(2004年撮影)。

ギジ録 コスタリカ探訪 その32


国境の街、シクサオーラ。

幹線道路沿いに飲食店や雑貨店などが数件並ぶ。

空車のタクシーを見つけ、運転手さんに声をかける。

行き先を告げる。

すぐに行き先を理解してもらえるか不安だったが、それは杞憂だった。

一発でOKの返事。

料金は6000コロンとのこと。

四輪駆動の車に乗り込む。


いまバスでやってきた幹線道路をしばらく戻る。

そして、右折。砂利道が続く。

しばらくして左折。

車1台分の幅のぬかるみの道。轍が深い。

なるほど、四輪駆動車でないと難しい。

シクサオーラから20分くらい経っただろうか。

「ここだ。」運転手が言う。

お金を払い、車を降りる。

午後1時頃のことだった。


家のおかあさんと思われる人が出迎えてくれる。

道から30メートルくらい奥に入ったところに家が見える。

1階はブロックとセメントで頑丈そうにできている。

おかあさんに導かれて、家の中に入る。

まずは挨拶。


おかあさんの名は、オリビアさん(仮名)。

僕がサンホセから電話で話した相手のおとうさんは不在。

畑仕事で外にいるとのこと。


家は2階建てで、2階部分は木材でできている。

この地域では洪水が時々あるので、1階にはセメントを用いたようだ。

そういえば、タクシーから見た途中の家々は木造で高床式だった。

浸水する前提で家が建てられているようだ。


家に入ってすぐ右手の一室を僕が使ってよいとオリビアさんが言う。

きれいに片づけられ、ベッドメイクしてくれている。

蚊帳も設置してくれている。

こんなどこの誰かもよくわからない外国人。

なのに、こんなに親切に歓迎してくれるオリビアさん。

ありがたみが身に沁みる。


着いて早々だが、疲れ果てていた僕はオリビアさんにお願いした。

「少し休ませてもらってよいですか?」

失礼を承知だが、早朝からの移動と、緊張からの解放。

疲れがどっと出てしまったのだ。

オリビアさんは快くOKしてくれた。


1時間くらいベッドで横になり元気回復。

起き上がって、その間に家に戻っていたおとうさんとご挨拶。

名前はルーカスさん(仮名)。

どちらかといえば小柄なその全身から快活なエネルギーが満ち溢れている。

表情にも声にも、明るい力がみなぎっている。


しばらく話していると夕方になり、空が少し薄暗くなる。

すると、子どもたちが帰ってくる。

みな礼儀正しく、同時に社交的だ。

こうして、僕のタラマンカでの滞在が始まった。


写真:ルーカスさんの家の近くのバナナ畑。すぐ隣に大きなバナナ農園があるが、これは自家栽培の小さな畑。

ギジ録 コスタリカ探訪 その31


コスタリカ国内のいくつかの地域を訪れた。

もちろん、国全体のなかのほんの一部にすぎないけど。

そのなかで、2004年に長めの滞在をした2か所の農村。

それらが僕にとってコスタリカの印象の大きな部分を占めている。


サンカルロス郡にある村と並ぶもう一つが、タラマンカ郡にある村だ。

そのタラマンカの村には協同組合があり、僕は前の年から注目していた。

共有林を保全・活用しながら豊かさを求めている事例。

インターネットで調べていたときに、複数の情報源で紹介されていた。

僕がそのとき研究しているテーマの模範例だという印象を受けた。

ぜひ訪れて学ばせてもらいたい!

そう僕は思った。


情報源にメールアドレスが載っている。

そこで、たどたどしいスペイン語でメールを留学先のカナダから送った。

ボランティアとして滞在させてもらいたい、という希望だ。

しばらくすると短い返信が届いた。

「ここにぜひ来てください。インターネットはないけど。」

要点はそのようなことだった。

インターネットの件は、僕が最初に送ったときに質問したからだ。


サンカルロスの村から一旦サンホセに戻ったときに電話してみる。

スペイン語と英語を組み合わせて何とかやり取り。


そして2004年2月初め。

僕はサンホセから長距離バスに乗った。


まず北上したバスは山を登る。

蓮のような大きな葉を持つ植物が斜面に多くある。

やがて坂は下りになる。

Continental Divide(大陸の分水嶺)を超えたらしい。

これまでは西側、つまり太平洋側の斜面。

ここから先は東側、つまりカリブ海側の斜面。


坂を下りきると平坦な低地。

しばらくするとリモンという港町に到着。

ここでトイレと昼食の休憩を取る。


リモンを出ると、ほどなく左に美しい海が見える。

窓のすぐ外はカリブ海。

海岸の道をバスは走る。


カウイータという海辺の町。

ここには国立公園がある。

2001年にエコツーリズムのフィールドトリップで来たことがある。

今回は通過する。


さらに海岸沿いを進むとプエルト・ビエホに着く。

「古い村」という意味だ。

カウイータより観光で賑わっている。

ヒッピーが集まっている印象もある。


やがて、ブリブリという町に着く。

プエルト・ビエホでは主に観光目的の人が乗り降りしていた。

ブリブリではコスタリカ人の乗客も乗り降りする。

このあたりの住民がサンホセに行く足として高速バスがあるのだろう。


ブリブリを発車したバスは南東に進む。

バナバ農園が車窓に広がる。

2004年当時は途中から道路の舗装が途切れ、砂利道になった。


そして、シクサオーラに到着。

ここが終点だ。

シクサオーラは国境の町。

橋を渡った先はパナマである。


僕が目指す村は、パナマと逆方向に少し戻ったところにある。

村に着くまで、まだ少しの移動が残っている。



タラマンカを走るバスの車窓の風景。コスタリカとパナマ両国にまたがる国際平和公園La Amistadを望む(2004年撮影)。

ギジ録 コスタリカ探訪 その30


2004年1~2月の僕のサンカルロス滞在。

あっという間に5週間が経った。

もって長くここにいてほしいというありがたい言葉ももらった。


でも、僕はここを去らなくてはならなかった。

なぜなら、3か月のコスタリカ滞在中に、少なくとももう1か所でフィールドワークをする必要があったから。

そして、それは僕の研究対象である「共有林」の事例である必要があった。

ということで2月後半、僕は一旦、首都サンホセに戻ることにした。


出発の日の朝、少し時間に余裕があった。

そこで、ロッジからひとりで歩いて沼に行き、カヌーを漕いだ。

両岸を高い木が覆っているところでは陽射しもない。

涼しくて静かな空間。

僕は名残り惜しみつつ、その静かな時間を味わった。


沼のあちこちに倒木が見える。

浅いので、水面から一部が浮き出している部分もある。


そのなかの一本の倒木の上に僕は何かの気配を感じた。

そこにいたのはバシリスクと呼ばれる緑色のトカゲだった。


オーストラリアを旅したときからトカゲ好きの僕。

美しいバシリスクと1メートルくらいの距離で対面。

心躍る瞬間だった。


目と目が合っている(気がする)。

すぐに逃げないので、心が通っているのだろうか?

そんな妄想をついしてしまう。


おそらく1分間くらい見つめ合って(?)いた。

とても贅沢な時間だった。


ずっとそうしていたかったけど、僕のほうがタイムアップ。

そろそろ出発しなければならない。

カヌーを少し動かすと、バシリスクは逃げ出してしまった。

水面を走りながら。

そう、バシリスクは水面を走ることで有名なのだ。


カヤックだからこそ、このように近づくことができた。

そして、間近で水面走りも見せてもらうことができた。


映画「スタンド・バイ・ミー」で主人公の少年が森で鹿と遭遇する場面。

それを思い出してしまった。

僕にとってバシリスクとの対面は映画の一場面のような忘れられない記憶となった。


ここまで、サンカルロスでのフィールドワークを回顧してきた。

どちらかというと生き物とか自然環境の話が多かった。

でも、実は本当に語りたいのは人々のこと。

なので、この続きはまたいずれ書き綴りたい。



これはバシリスクでなくイグアナ。

サンカルロス川の岸にて2004年に撮影。

ギジ録 コスタリカ探訪 その29


ジャングルツアーのガイド。

その役を担わなければならなかった僕。

そのため、森のなかのことを教えてもらった。

自分で見聞きしたことと合わせ、必死で吸収した。


そうして得た知識は、18年経った今でも自分の中に残っている。

例えばヤドクガエルのこと。


森で見るカエルのうち、特に2種類がドハデだった。

ドハデなのは、毒を持っているのだ。

危険であることを色で示している。

昔、先住民はヤドクガエルの背中から取った毒を矢の先に付けたそうだ。

そうして狩をしていたとのこと。

だから日本語でもヤドク(矢毒)ガエルと呼ばれるのだ。


緑と黒のまだら模様なのがマダラヤドクガエル。

見るからにヤバそうな色と柄だ。

大きさは4、5センチメートルくらいか。


真っ赤なのがイチゴヤドクガエル。

脚だけ濃い青なので、ブルージーンという愛称もあると現地で聞いた。

こちらは2センチメートルくらいで、とても小さい。

そしてかわいい!


森でこれらのカエルと出会うと嬉しくなった。


それ以外にも、人と森の関わりについての話が興味深かった。

それこそ矢を立てたような形をした樹木(名前は不明)。

矢の先端が上だとすると、羽根が地面あたりで放射状に広がる。

そんな形状の幹の根本なのだ。

こうして張り出した羽根状の幹の窪みに人間が潜むことができる。

上に大きな葉っぱ重ね、覆いにする。

そうすれば雨露しのぐ簡易テントになるそうだ。

時に激しい雨が降る熱帯のジャングル。

なるほど、と感じさせられた。


あるいは、森のあちこちで見かけるツル。

ごく細いものから、7、8センチメートルほどの直径のものもある。

こうしたツルは、昔、ジャングルを行く人間を助けたそうだ。

移動中に喉が渇いたら、ツルを鉈でぶった切る。

中からあふれ出てくる水分を飲んだそうだ。


このような魅力的な話の数々。

とても愛おしく感じられた。



写真:イチゴヤドクガエル(2004年筆者撮影)